お金を取り扱う仕事に従事している者として、『あなたにとってお金とは?』という問いには簡潔に答えられるようにしておきたいものです。
これを機に少し整理しておきます。
『不幸を回避する手段』
個人的には一番共感のできる考え方です。
お金をたくさん持っていれば幸せ、とは限りませんが、お金があれば回避できる不幸が世の中には一定量存在する、というのはどうしたって否定できないように思います。
心身の健康に寄与する衣食住や学習、高度医療などはその最たるものでしょう。
水や食事は命を育みます。
自分の子どもが『大学に行きたい』『留学したい』と望むのに『お金がない』は言いたくありませんよね。
お金があれば救えた命だって、数え切れないほど存在するでしょう。
人生を歩んでいく中で無数に待ち受ける苦境や困難。
お金を剣や盾に変えて戦わなければならない瞬間は、残念ですが不可避で訪れます。
『安全や安心の対価』という見方をしてもよいかと思います。
『欲求を満たすチケット』
いい車、大きな家、美味しい食事、読みたい本、観たい映画、行きたい国…。
ここでは資本主義的な欲の良し悪しについては語りませんし、『欲求』と『夢や目標』との違いも語りませんが、これらを手に入れるには多くの場合相応の対価が必要となります。
質素倹約を信条とするあなただって、友人や恋人と食べるケーキは美味しいはずです。
こんな時代だからこそ、あの車に乗りたい、あんな家に住みたい、を夢や目標にお仕事を頑張られる方もいるでしょう。
あの音楽があるから、あの映画があるから、忙殺される日々をなんとか生き抜くことのできる方もいるでしょう。
『お金』と『欲求』の関係性は人の目をくらませる効果を持ちますが、うまく折り合いをつけることで、人生を豊かにするというのも、また事実なのかもしれません。
『価値を測定するメジャー』
時給や月給は、(正確性はともかくとして)あなたの労働につけられた値です。
商品やサービスにつけられた価格は、その商品を入手するために必要な客観的価値を示します。
資本主義市場においてお金は、需要と供給のバランスが均衡する『提供価値』を数値化する役割を持っています(『市場が正しく機能していること』が大前提ですが)。
消費者的立場に立てば、もちろん『A』という対象物への主観的価値は人それぞれですから、つけられた値つまり『客観的価値』と、あなたの中での『主観的価値(時や機会によっても変動するでしょう)』がつり合わなければ『買わない』という選択となります。
提供者としての立場に立つ場合、自分の提供する某かに、否が応でも値がつけられてしまいます。
だからこそ、その値を、売上を、時給を、月給を、年収を、1円でも上げようと多くの人は日々努力や我慢や思考を重ねます。
その数字が、ある人にとっては『尊厳』になり、またある人にとっては『慰め』もなりうります。
『お金』と支配・被支配との関連性
上記3つはどれも、お金と交換する対価物に対する価値を認めるものです。
一方で、『お金そのもの』に価値を見出す方も一定数いるでしょう。
しかし実はその裏には、お金を手にすることで獲得できる『承認欲求』や『優越感』『支配権』に対する欲求が潜んでいるように思います。不安なのかもしれません。
そういった価値観の良し悪しも今回の話のターゲットにはなりませんし、むしろ人類の歴史は持つ者と持たざる者の営みの編纂物でもあります。
ただしいずれにせよ、そういう方もいる、というのは『お金を扱う仕事』に従事する人間として、必ず認識しておく必要があると感じています。
『お金なんて』と言い切ってしまう税理士、なんかちょっと怖いですもんね笑
最後に
『あなたにとってお金は?』
そう問いかけられた時、なんて答えますか?
僕は『不幸を回避する手段』と答えると思います。
僕自身、認識の内外問わず、数知れずお金に救われてきているのだと思います。
回答はもちろん人それぞれかと思いますが、お金の持つ力は魅力的かつ強力がゆえ、その距離感のとり方は難しく、またその割には生まれ育っていく中で誰もシステマチックにお金の教育をしてくれません。
確定申告のやり方ぐらいは義務教育で教えても良いと思うのですが。
だからこそ忘れてはならないのは、あくまで『主人は自分』だということ。自分とお金との主従関係が逆となって得をすることなどひとつもないと思います。
金はあくまで手段であり道具であり、指標です。
さて、あなたにとって、お金とはなんですか?
***編集後記***
緊急事態宣言の解除が決定されました。
個人的には引き続きしばらくの間不要不急の外出は避けるつもりでいますが、まずは一歩前に進みましたね。
テレワークや電子スタンプの普及など、良い変化も見られます。
今後、ビフォアコロナよりもずっと心地よく心豊かな社会が構築されていくことを個人的には強く望んでいます。